兵庫県出身。松山・パーソナルファッションアドバイザー、合田聡子さん(42歳)①



ファッションを通じて、エシカル消費を伝える


合田聡子さん(42歳)※取材時の年齢

  • 兵庫県尼崎市出身
  • お母様の影響で、21歳でファッションデザイナーになり東京へ。そこで出会った彼との結婚を機に、29歳で松山へ移住する。
  • 現在は、8歳の娘さんのママであり、ファッションを通じて、エシカル消費を伝える『パーソナルファッションアドバイザー』。長く使える似合う洋服を選ぶため、骨格診断やパーソナルカラー診断を活用し、個人のライフスタイルに寄り添うファッションを提案する。
あゆみ
衣食住にまつわる仕事は身近な分、興味のある人も多いのではないでしょうか?
今回は「アパレル関係の仕事につきたい」「子育てをしながら仕事をしたい」そんな方にぜひ見て頂きたいです。
兵庫県のご出身なんですよね。どんな学生時代だったんですか?
聡子さん
母が洋裁師だった影響で、絵をかいたり、物を作ったりするのが好きでした。実家の隣で親戚が縫製工場をしていたんですよ。母もそこで働いていたので、よく遊びに行っていました。工業用ミシンや生地の山など、お洋服に触れる機会は多かったですね。
小学校の頃のお小遣いも、アパレルのお手伝いをして貰っていました。洋服を買ったときに、ビニール袋にボタンと生地が入っているじゃないですか。その袋詰めをしていて。1つ1円だったんですが、頑張れば稼げましたね(笑)
あゆみ
なるほど!やっぱり小さい頃の環境って大きいですよね。おしゃれも好きだったんですか?
聡子さん
おしゃれは好きでした。ただ、奇抜なものが好きなわけじゃなく、自分に似合うものはなんだろうって色々試していましたね。手作りっぽいものが好きなのは、母の影響が大きいと思います。
あゆみ
そのときの志向が今の仕事にも繋がっているんですね!当時の将来の夢は何だったんですか?
聡子さん
絵を描くことが好きだったので、初めは漫画家やイラストレーターが良いなと思っていたんですよ。ただ、思い入れがあったのか、洋服のことが頭にちらついて。
それからアパレル関係で絵も描けるような仕事、ファッションデザイナーになりたいと思いました。母も、好きなことをすればいいって後押ししてくれましたね。

アパレルの専門学校へ、念願のデザイナーは意外にあっさりなれた?

あゆみ
お母様も嬉しいでしょうね。高校卒業後も服飾系の学校に行かれたんですか?
聡子さん
神戸文化短期大学の被服科に入学しました。当時は3年か4年制の学校を出ていないとデザイナーになれなかったんですよ。そのため短大卒業後に神戸の服飾専門学校に編入し、デザイナーを専攻しました。
人数が少なかったからか、アットホームな学校で人との出会いに恵まれましたね。私自身、元々器用貧乏なタイプだったので、出来るときは手を抜いちゃうんですよ。先生も「そんなことしてたら絶対に壁にあたるぞ」ってきちんと見てくれていて。友達もいまだに仲が良いですよ。
あゆみ
へー!少人数ならではですよね。卒業後はみんな、アパレル関係に就職されるんですか?
聡子さん
専門学校って、ここの企業に何枠っていうコネクションがあるんですよ。大手だと試験がある会社もありますが。
私は、大きい会社の方がいろんなことが見れるかなと思い、大手アパレルメーカーに入社し、東京に行くことにしました。東京は、親の転勤で2年くらい住んだことがあるんです。アパレルで働くんだったら東京かなと思い、また本社が原宿にあって華やかそうって思ったのもありますね(笑)

デザイナーというよりは職人、毎日遅くまで働く日々

あゆみ
確かに、アパレル業界自体が華やかなイメージですよね。ファッションデザイナーさんってどんなことをされるんですか?
聡子さん
20年近く前でアナログだったので、手書きでデザインをしていました。そのデザインをパタンナーさんが形にして、サンプルを作って、サンプルチェックをして、修正をして。洋服の詳細を記載した仕様書も作ります。その間に、生地屋さんやボタン屋さんともそれぞれで打合せをしますね。
あゆみ
1つの洋服が出来るのにかなりの人と手間がかかっているんですね。女性向けのお洋服ですか?
聡子さん
ブランドは若者向けのカジュアルなものです。なので、世代的には近かったですね。
企業デザイナーの場合は、ブランドのチームで動くんですよ。例えば、『エスニック』っていうテーマが決まっていたら、チーフデザイナーがデザインの方向性を出して、私たちがそれに対して色づけをします。デザイナーっていうよりは職人ですかね。
あゆみ
その表現は面白いですね。仕事はどうでしたか?
聡子さん
楽しかったんですが、残業の嵐であっという間に時間が過ぎていきましたね。22時でも、原宿近辺のアパレル企業では、どの会社にも電気がついていました。今でいうブラックです(笑)ただ、ハードだけどお金がすごい貰えるわけじゃないんです。専門学校の同級生たちも卒業当初はアパレルに就職しましたが、今でも続けているのは一握りですね。

他の仕事をして、改めて「作る仕事って楽しい」

あゆみ
なるほど、華やかな側面だけではないですもんね。学生時代の夢を叶えられたとのことで、何か達成感などありましたか?
聡子さん
嬉しかったんですが、割とあっさりデザイナーになることが出来たんですよね(笑)仕事は忙しいし、思うようなものが作れるわけじゃない。入社当時から「3年は続けよう」と思っていましたが、「これで良かったのかな?」という気持ちもありました。
ちょうど3年経ったときに、東京で出会った彼…今の主人ですが、彼が愛媛に戻るというので、そのタイミングで自分も地元に帰ろうと思いました。
あゆみ
当時の彼が今の旦那さん!素敵ですね。戻られて何をされたんですか?
聡子さん
初めは、「違う仕事もしてみたい」と派遣で事務などをしました。ただ、他の仕事をすると改めて「作る仕事って楽しかったな」と思うんですよね。「もうちょっと出来ることがあったんじゃないか」。そう思ってアパレル専門の人材紹介会社に登録し、神戸の会社にデザイナーとして就職しました。
今度は、小規模でアットホームな会社でした。先輩方も良くしてくれてプライベートも充実していたんですが、1年半くらいで倒産してしまって。当時の上司がアクセサリー会社を立ち上げるとのことで、そこの販売員に誘われました。

お母様の影響で小さい頃からファッションに興味を持ち、順調に大手アパレルメーカーのデザイナーになった聡子さん。残業の多さや、作りたいものを作れないストレスで転職をしながらも、アパレル業界に戻ってきたのはやっぱり「モノづくり」への想いでした。
次回、独立された経緯や気になる『パーソナルファッションアドバイザー』のお仕事について。お子さんのお話についても、たっぷり語って頂きました!

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🍊住所   愛媛県松山市福音寺近辺。※自宅サロンのため住所はお問合せください。
🍊予約方法 ブログからお気軽にお問い合わせください。

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