別子山村出身。松山・テニス指導者、近藤祥二さん(60歳)①



近藤 祥二さん(60歳)※取材時の年齢

  • 別子山村(現:新居浜市別子山村)出身
  • 新居浜南高校卒業
  • 中部大学工学部建築学科卒業
  • 25歳のとき、会社員として住宅営業をしながらテニスのコーチ業を開始
  • 40歳で独立し、テニスのコーチ業に一本化
  • 松山市を拠点に、現在も子供から大人まで幅広い選手にテニスを教える

今回は、松山市でテニスの指導者をしている近藤祥二さんに登場してもらいました。
近藤コーチはテニスの指導者として30年以上のキャリアを持ち、社会人でもプレーするような選手を何人も輩出しています。

すみちゃんは今も野球をしている永遠の野球少年ですが、実はテニスもしていた時期あり、その恩師が近藤コーチなのです。
私がスクール生として通っていたときには聞けなかった話を、たくさん聞かせてもらいました。

部活の選択肢が2つしかなく、そこからテニスを選んだだけ

角田
コーチ、今回はよろしくお願いします!コーチのチームで6年間お世話になりましたが、そういえばコーチの過去を何も知らないことに最近気づきました。
昔では話せなかったことをたくさん聞かせていただきたいと思います。

早速ですが、テニスを始めたきっかけを教えてください。

近藤
地元が別子山村(現:新居浜市別子山村)で子供の人数が少なくて、部活も少なかった。
中学校では卓球部とソフトテニス部しかなくて、その2つからソフトテニス部を選んだだけで、特別な理由はなかったかな。
本当は野球がしたかったけど(笑)
角田
野球がしたかったのは初耳です(笑)
ソフトテニス部をやってみて、どうでしたか?
近藤
やってみるとすごく面白くて、どんどん好きになっていった。
高校でも硬式テニス部はなくて、ソフトテニス部に入ったね。
角田
硬式に進んだのは何かきっかけがあるのですか?
近藤
良く覚えているんだけど、中学2年生のときに本屋でテニスの雑誌を手に取って読んでみた。
そこで初めて硬式テニスの存在を知った(笑)
世界で活躍するプレイヤーが載っていたりしていて、それがすごいカッコよくて。
「硬式テニスをやってみたい」って思ったけど、高校までできる環境がなくて、ずっと憧れを抱いていた。
だから、大学は硬式テニスをやろうと決めていたね。
角田
大学に入って硬式テニスをやってみて、どんな感想を持ちましたか?
近藤
想像していたよりも数倍面白かった!
軟式にはない打球の弾み方や打ったときの爽快感、そこに魅了されて大学はテニス三昧。
勉強はそこそこに、バイトもせず時間さえあればコートに行って練習する毎日だったね。


(先日、東京にて近藤コーチと12年ぶりに再会しました!)

レッスン生が楽しそうにしていなかった

角田
僕も、大学は野球ばかりだったので、その楽しさが伝わってきます。
大学卒業後は、どんな道に進んだのですか?
近藤
愛媛に戻ってきて最初はサラリーマン。住宅営業で、飛び込み営業なんかも経験したね。
仕事は月~金でやる傍ら、ずっとテニスが好きで、大学のときから趣味感覚でやれていたから、社会人になってもテニスができるところを探してたわけ。
すると、道後のほうにテニスコートがあって、社会人で集まってプレーしているチームがあったから、そこに入って土日はずっとテニスをやっていたね。
角田
いい出会いですね。
近藤
本当に。
楽しすぎて、土日は朝から晩までテニスをやっていた(笑)
角田
情熱がすごい(笑)
そのチームでしばらくプレーしたとのことですが、指導者の道はどういうところから始まったのですか?
近藤
社会人になって三年目くらいのときに、そのチームの一人がテニスクラブを作ることになって、アルバイトとしてレッスンのサポートをするようになったのが始まりかな。
指導者になりたいとは特に考えてなかったけど、自分の経験が生かせられるかも?と思って試しにやってみようと。
角田
ここが近藤”コーチ”の原点ですね。
そこで感じたことなど、教えてください。
近藤
この時は反省点が多かったかな。
バイト感覚だったし、自分がプレーすることにかなり重きを置いていたから、ただ手伝っているだけになっていた気がする。
ただ球出しをして、ただボールを拾って。
すると、レッスンを受けていた人たちが中々テニスを好きになってくれない。帰り際に「楽しかった」という声が聞こえてこない
指導者の姿勢がレッスン生にも伝わってしまっていたのかな?という気がして、辛い気持ちに。
これをきっかけに「テニスは楽しい」ということを伝えたいと思うようになった。

とにかく、テニスを好きになってもらいたい

角田
そんな時期があったなんて、知りませんでした。
そのクラブでの指導は長くやっていたんですか?
近藤
15年くらい、40歳手前までサラリーマンをしながらそのクラブで指導にあたっていたのかな。
角田
そこから一人でチームの立ち上げ。
どういう経緯だったのですか?
近藤
ちょうど、そのクラブがつぶれてしまって。
残念だったけど、それまで15年くらい指導していたから、「職業としてコーチ業に挑戦してみようかな」という気持ちになって、やってみることに。
一人でテニスクラブのコーチをしている友人がいて、「だったら自分も一人でやってみよう」と一人で始めることにしたんだよね。
角田
それが今のクラブの始まりというわけですね。
”一人で“というところに、不安などなかったのですか?
近藤
もちろんあったよ。
テニスのコーチで生計を立てている人なんて当時はほとんどいなかったし、できるかどうかなんてわからなかった。
それでも、「テニスが好きだから」挑戦しようという気持ちになったね。
角田
好きだから挑戦する、素晴らしい決断だと思います。
一人でコーチを始めてみて、大変だったことは何ですか?
近藤
まずは、テニスコートを確保すること。
どこにどれくらいコートがあって、いくら払えば使えるとか全然わからなかったし、練習に打ち込める環境なのかわからなかったから、松山市内にあるテニスコートは全部観に行った。自分たちのコートがあるわけじゃなかったから、そこからのスタート。
当時はコートがたくさんあったのと、来てくれるレッスン生も毎回いたから、タイミングは良かったと思う。
角田
僕がいた時も毎回コートが違ってたので、コーチの苦労が今になってわかりました。
他にはありますか?
近藤
”指導することの難しさ”を改めて知ることとなったかな。
今までは友人と一緒にやっていたから感じなかったものの、一人になってから知る苦労が本当に多くて。
毎回来るメンバーも違えば、子供の感情も毎回違う。

そんなときに、「どうすればテニスを好きになってもらえるか?」ということに毎回頭を悩ませていた。
ボールがコート上で弾んで、それをラケットで打ち返すなんて日常生活で体験できることじゃないから、その面白さをわかってもらうことに努めた。
とにかく、「テニスを好きになってもらう」ことに躍起になっていたね。


テニスの指導者になるまで、そして指導者になった当時の苦労を教えてくださった近藤コーチ。
アルバイトで指導をされていたときの「レッスン生がテニスを好きになってくれない」というエピソードが印象的でした。
この時の苦い思いが今のコーチの芯となっているのかもしれません。

次回インタビューでは、指導する上で心がけていること、指導者としてやりがいを感じる部分、そしてテニスを通じて若者に伝えたいことをお伝えします。

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