これまで『何か新しいもの』を探していた。しかし大事なものは『既に持っているもの』の中にあった。
泉原朱美さん
- 愛媛県西予市(城川町)出身
- 幼い頃、祖父がTVに出ていたのをきっかけに、マスコミ関係の仕事に就きたいと東京の早稲田大学へ。
- 化粧品メーカーに就職するものの、大学時代に魅了された韓国語を活かしたいと韓国系TV局に転職。広報PRとして活躍した後、得意の韓国語×PR力×デザイン力を活かし、韓国から仕入れたものをネット販売する事業で起業する。
- 新規事業の模索中に地元の猟師さんの話を聞き、幼い頃から慣れ親しんでいたイノシシを活用したいと決意。現在はイノシシを使った商品の開発や、イノシシ脂を使った自社化粧品『TAON』、イノシシ肉の販売を行っている。
- ヒメセカの美女枠兼WEB・SNS担当✨
取材をする側でTVに出られたらいいなと思っていた
その時の夢はアナウンサー。地元に岩上田という観光スポットがあり、祖父がその田んぼを耕していたため、取材を受けるのをいつも見ていたんですよ。めざましTVに出る祖父を家族全員で見ながら、いつか取材をする側でTVに出られたらいいなと思っていました。
その本にアナウンサーの卒業大学が載っていたんですが、圧倒的に早稲田大学が多かったんです。
「早稲田大学に入るにはどうすればいいんだろう?」そんなときに、ちょうど宇和島東高校出身で早稲田大学に入られたアナウンサーの宮川俊二さんが、フジテレビのゴールデンタイムで活躍されていました。
宇和島東に行けば早稲田大学に行けるかもしれない。そのため、宇和島東を目指して中学校2年生から勉強を頑張りましたね。
小学校6年生の時、田舎だったので、当たり前に地元の中学校に進むものだと思っていました。しかし、何も考えずに迎えた中学の入学式で、同じ小学校の子が1人来ていなかったんです。聞いたら「あの子は中学受験して松山に行ったよ」と。その時に「私も選べたんだ」そう思ったのをずっと覚えていたんですよね。
結局、大学進学するには通学時間が勿体なかったので、宇和島で下宿生活を送りました。
しかし地元では大学に進学する人が少なく、両親は渋っていたんです。それでも勉強の甲斐あってか、早い段階で早稲田の合格が出ました。第二文学部(夜間学部)でしたが、二文でもアナウンサーになっている方はいたので、迷わず進学を決めました。
また同じ頃に、宮川俊二さんにアポを取ったら会って下さることになったんです。しかしアドバイスを頂く中で、アナウンサーになるには訛りやイントネーションを直さなきゃいけない。洗練された雰囲気を身につけるために住む場所を変えないといけない。見た目が大事だから歯並びを矯正しなければいけない…と、やることが多いなと思ったんですよね。憧れだけではなれないんだなと感じた瞬間でした。
他人がしないことをしよう
それまで他業種を見ていなかったたため、受ける会社を探すのには苦労しましたね。しかし、回を重ねるごとにコツをつかみ、4年生の4月に美容商材のメーカーから内定を頂きました。
また、高校の時にハリウッド映画にはまり海外の人と文通をしていたんです。ポーランド、タイ、アメリカ…たくさんの国の人がいる中で、大学生になっても返信があったのは韓国の人だけだったんですよね。それで親近感を感じたのもあります。
卒業式前の3月には3週間、向こうの早稲田大学と呼ばれるところに留学もしました。
結局韓国熱が高まり、新卒で入った会社も2か月の新人研修で辞めちゃいました…💦実は入社自体も前日まで迷っていたんですよ。これで現場に出ると、また辞めたくなった時に、さらに辞めづらくなると思いました。人事部の方にはめちゃくちゃ怒られましたけどね。
また普通の道から脱線することへの不安もありました。しかし「25歳まではやりたいことをやろう」と自分の中で折り合いをつけましたね。
デザインすることに面白さを感じていた
それから、韓国系旅行会社の日本事務所で1年働きましたね。ちょうど冬ソナブームだったので、ファンミーティングで韓国行きに同行したり、本社と毎日電話したり、韓国語が話せることが重宝されたんですよ。
一方で、韓国人の所長を含め4名の会社だったので風通しが良く、所長にメディアの仕事がしたいと言っていたんです。すると韓国のMnet(K-POP専門放送局)が日本進出する際に、社長が創業メンバーの仕事を紹介してくれて。「韓国だしメディアだし、所長が良いなら行きます」と、その会社に創業メンバーとして入ることになりました。
中でも忘れられないのは、初めて自分たちの放送局の電波が通った瞬間です。夜中にみんなで集まりましたよ。そこから24時間365日放送が始まるわけですから、記念すべき瞬間ですよね。
しかし、5年半働く中で少女時代やKARAが話題になり、日本メディアでも大きく扱われるようになったんですよね。大好きな韓国文化を流行らせたいという想いで働いていたので、やり切ったなと感じたんです。初めは6人しかいなかったメンバーも30人になり、ここが卒業する時かなと思い辞めることにしました。
なので慣れ親しんだネットを通じて、ネットショップの店長として、売上を上げるために写真や構成のデザインをしました。その頃には韓国に携われてるから楽しいというよりも、デザインをすることに面白さを感じていましたね。
また、物販ってお金を稼ぐうえで一番基本的なことなんですよ。これまで旅行の手配や広報でお金を扱うことがなかったので、初めてお金の動きを見れたのは本当に収穫でした。
一人で努力することを惜しまず、Mnetへ創業メンバーとしてジョインするなど果敢に挑戦し続けていたいずねぇ。
今では身近になった「韓国」も、いずねぇが架け橋になってくれたからかもしれません。
いずねぇはその後独立、起業を選択し、ヒメセカを創立。
2018年より始まった事業の話も次回インタビューでたっぷり伺います!
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