宇和島市出身。松山市・テレビ局記者、百合田彩さん(28歳)①



『番組を見て貰うことで、その人のファンを増やしたい』

百合田彩さん(28歳)※取材時の年齢

  • 愛媛県宇和島市出身
  • 高校2年生の時のアメリカ留学がきっかけで、取材ができるキャスターを志し東京の大学へ。
  • 1度目の就職活動で挫折を経験したものの、12年間続けたバレエで培ったストイックさで、念願のTVマンへ。
  • 現在は地元TV局の記者として、ニュース番組などで大活躍。系列ニュース局の中でも、特に優れたニュースに送られる賞を何度も受賞している。

悲惨な出来事をニュースできちんと伝えられる人になりたい

あゆみ
南海放送のニュース番組で記者として活躍するゆりたさん。色んな番組に出られているので、お顔を見たことのある方も多いのでは?
「記者ってどんな仕事?」「TV局で働きたい」そんな方にぜひ見て頂きたいです。どんな子供時代でしたか?
あや
言われたことには、とりあえず何でも挑戦する子供でした。小学校の時は、英会話、公文、バレエ、ピアノ…週4~5で習い事をしていました。もちろん嫌で辞めたものもあります。
例えば、ピアノの練習のように同じことを繰り返すのは苦手なんですよ(笑)対して、バレエは6歳から高校3年まで12年続けたり、英会話は大学でも英語を専攻したり。
一旦やってみたことで、自分の好き嫌い、できるできないが分かった気がします。


あゆみ
好奇心旺盛!そんな小さな頃から、TVマンの片鱗があったんですね。愛媛時代に思い出に残っている出来事はありますか?
あや
高校2年生の時に、アメリカのニュージャージー州に交換留学に行ったことですね。父の所属する団体が、毎年四国の高校生を対象にしたプログラムを主催しており、その選考に応募したんです。
ホームステイをしたり、国連に行ったり、1954年に宇和島市長が国連本部に寄贈した平和の鐘も見に行きました。英語を使いつつ、社会的ことを学ぶプログラムでしたね。
実際に行って将来の夢も決まりました。
あゆみ
将来の夢が決まったとは?
あや
幼い頃から、歌手とか女優さんとかTVに出る仕事に憧れていたんです。家ではTVがずっとついていたし、当時は情報に触れる機会はTVしか無かったんですよね。

中でも、特に印象に残っていたのが小学6年生の時に見たアメリカ同時多発テロの映像だったんですが、交換留学でその現場を訪れたんですよ。そこには当時から5年経っても、涙ながらに手を合わせている人がいました。その光景を見て、風化させちゃいけないなと感じたんですよね。
この悲惨な出来事をニュースできちんと伝えられる人になりたい。そこからアナウンサーを意識するようになりました。


(高校在学時に海外に行ったときの写真)

その場その場に合わせて自分の言葉で言い切るって勇気がいる

あゆみ
なるほど!漠然と思い描いたものが、留学に行くことで形になったんですか。実際にアナウンサーになるために心がけていたことはありますか?
あや
大学進学にあたっては、アナウンサーになるために標準語を学びたいと東京を選びました。しかし、どこの大学がどれがけアナウンサーを輩出しているかが分かるアナウンサー名鑑では、進学予定の駒澤大学からアナウンサーになるには難しそう…。
そう思い他大学への編入を覚悟して、大学1年生の時から、中高の教員免許や図書館司書の勉強も含めて単位はしっかり取っていましたね。しかし、大学2年の終わりに編入のシステムが無くなったんですよ(笑)別の方法でも頑張るしかないと思い、すぐにアナウンススクールに通い始めました。
あゆみ
アナウンススクールは私も東京に出て初めて知りました。TV局などによって運営されているみたいですね。どんなところなんですか?
あや
私が通ったのは、現役アナウンサーの方が講師として来られていたフジテレビとテレビ朝日のアナウンススクールです。プロから学ぶのが一番だと思ったのと、繋がりを作るためでした。ただし、試験を受けると日テレ系に残ることが多かったんですが(笑)ちょっとずつTV局にもカラーがあるんですよね。

しかし、アナウンススクールに通ったことで、人前で話すことと舞台で踊ったり歌ったりすることは違うんだということに気付きました。決められた演目を披露するんじゃなくて、その場その場に合わせて自分の言葉で言い切るって勇気がいるんですよね。特にTVなど、大衆に向けて話すってちょっと怖いことだなと感じました。

あゆみ
その他に大学時代で頑張ったことはなんですか?
あや
色んな人と関わることが好きだったので、大学2年生からユニクロでアルバイトをしていました。レジ対応が早いのとレジ金の差異がなかったので、周りからは『レジの神様』と呼ばれていました(笑)細かい作業は得意ではないのですが、小心者なので…“絶対に間違えてはならないこと”に対しては、細心の注意を払っていました。

そう考えるとニュース原稿を書くのも近いですよね。誤報は絶対ダメですし。
また、今思えば、昔から正義感が強く、反感を買っていじめられたことがあるくらいダメなことはダメだと言っていました。両親は将来、弁護士になると思っていたみたいです(笑)

結果的に見ると小さい頃からの夢が叶っている

あゆみ
でもやっぱり昔からの夢であるTV業界を受けたんですよね。就職活動ではどんなエピソードを話したんですか?
あや
ユニクロでのバイトについてや12年続けていたバレエの話をしていました。バレエは3か月で8キロで体重を落としたという話をして、ストイックさや粘り強さを表現しました。
一方、
興味があることは色々挑戦してきたので、逆にこれを長く続けたっていうのが無かったんですよね。(アナウンサー志望でバレエをしている人は沢山いますし)そこを表現するのが難しくて…「これを何年もして極めてきた!」って堂々と語れる人が、いつも羨ましかったです。
あゆみ
就職活動はどうでした?
あや
実は、現役の時は内定が貰えなかったんです。そのため大学卒業後、松山市役所の臨時職員をしながら、2回目の就職活動で採用が決まりました。
TV局…特に地方局の採用試験は、人員補充の意味合いも強いため、毎年必ず行われるわけではないんです。なので南海放送も現役の時には採用試験はしていませんでした。南海放送も日テレ系でしたし、本当に巡り合わせですね。1回目も2回目も全国のTV局を受けましたが、やはり地元・愛媛が良いなと思い、南海放送で仕事をすることを決めました。
あゆみ
そんなエピソードがあったとは!むしろそこまでTVにこだわった理由というか、モチベーションは何だったんでしょう?
あや
結局、小さい頃からTVに出る人になりたいという想いが途切れなかったんですよね。中でもニュースにこだわり続けたのは、TVニュースってソースを大事にしているんです。今の時代、YouTubeなど映像を見るチャネルはたくさんありますが、TVニュースは必ず残ると思っています。
現役では内定が出ませんでしたし、とんとん拍子だったわけではありません。でも結果的に見ると小さい頃からの夢が叶っていますね。


同級生が就職する中、夢のため、働きながら再チャレンジをするという選択をしたゆりたさん。
周りのレベルの高さに圧倒されながらも夢を叶えたのは、幼い頃に培った努力する力と消えない夢への想いでした。
次回は、いよいよ気になるTV記者の仕事について。やりがいや今後の夢についてもたっぷり語って頂きました!

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