大洲市出身。ミャンマー・大手通信会社 現地法人社長、福田浩喜さん ①

海外で働きたかった!第一希望はニューヨーク

福田浩喜

福田 浩喜

  • 大洲市出身
  • アメリカ、ベトナム、ミャンマーと海外転勤を続ける
  • 現在は、KDDIミャンマー支社に勤務

出身を教えて下さい。

大洲出身です。
平野小学校、平野中学校、香川県の詫間電波高専に5年間通いました。

大学に行きたかったんですが、当時はねお金がなかったんですよ(笑)
色々探したら高専というのがあって、国立で奨学金や授業料免除もある。

また、高専は各都道府県に1校あるんですが、電波高専は日本に3校、仙台、香川、熊本しかありませんでした。
あまり人がいないなというのと、その当時、アマチュア無線をしていたというのもあって、詫間高専に行きました。

なぜKDDIに入社されたんですか?

高専は、20歳が就職なんですね。

その当時は、英語もしゃべれないけど、なぜか海外に行きたいという夢はあったんですよ(笑)

企業情報を掲示板で見てた国際電信電話(KDDIの前身)。
これだったら海外に行けるかもと思って、KDDIに入りました。

なかなか入るのは難しいんですが、無線でプロ一級の資格を持っていたんですよ。
当時KDDIには、有資格者がいなかったので、枠がありました。
そこでほぼ無試験で入れましたね。

なぜ海外に出たいと思われたたんですか?

田舎にいたので、漠然と愛媛を出たいと思っていたんですよね。
次男坊でしたし。

小学校の時は、なんとなく先生になりたいと思っていたんですが、そのためには大学に行かなけばいけない。
でも大学にはいけない。
中学校のときに高専を選んで、それから「海外に行きたいな」という思いが出てきました。

今は高専も見直されてるんですよ。

大学に行ったら頭でっかちになるし、高卒だとちょっと足りない。
高専は使いやすくて即戦力になるという認識で、ちょうどいい塩梅だったんですよね。

ただ最近もKDDIが詫間高専に行くんですが、逆に地元志向なのでお断りされるんですよ(笑)

入社後は、どうやって海外に行かれたんですか?

入社後は、無線を扱う部署に配属されたんですが、それが埼玉の山奥だったんですよ。
埼玉県上尾市の山奥、しかも掘立小屋みたいなところに通って(笑)

船や、平壌(北朝鮮の首都ピョンヤン)との通信を行っていたんですが、このままだったら、国際どころではないなと思いました。

当時、新入社員だったんでネクタイがしたかったんですよ。
なので会社にもネクタイして行ったら、あれ今日お客様が来るのかって上司に言われて。
仕事終わってから、わざわざネクタイをして飲みに行ってたこともあります(笑)

半年に1回の健康診断では、東京に行く道のりで日経新聞を読んでみたり。
サラリーマンに憧れてたんですよね。

そんな生活を半年ほどしてたときに調査票が配られて。

第一希望ニューヨーク第二希望ロンドンって、しかも鉛筆で書くところをボールペンで書いたんですよね。
そしたら上司に呼ばれて、入ったばっかりで何考えてるんだと(笑)

同期たちが新幹線で大阪に出張に行くっていうときも、自分は北浦受信所に保全車両で行っていたくらいで。
短波から抜けないとと思っていました。

その後、埼玉から栃木に行って、5年で大阪に転勤して、データというものを扱うことになりました。
1988年頃に、データが流行り始めたんです。
5年かかりましたね。

ただ今思うのは、先輩後輩の関係も良く、運動も学生時代以上にして。
のびのびと5年間過ごせたのが良かったのかなと思います。

それから大阪に転勤になったんですが、いよいよ27歳のときにニューヨークに行くという内々示がありました。
送別会をやって貰ったり、海外転勤には親知らずも抜いた方がいいっていうのがあったんで、それも抜いて。

ただね、来なかったんですよ(笑)

その後、6ヶ月くらいアメリカに出張させてくれたりはあったんですが、「私は、出張じゃなくて海外で働きたいんです」ってずっと言い続けたんですね。
そこから2年後、AT&Tとのジョイントベンチャーがあって。
93年にアメリカに行きました。

マンハッタンの風景

英語が話せない中での、出張は大変じゃなかったですか?

実は初めての飛行機が、海外出張でニューヨーク1週間だったんですよね。
とにかく、パスポートコントロール(出入国審査)でも何言ってるか全然分かんなかった(笑)

最初の出張で帰ったときはショックでしたね。
こんなに喋れないのはまずいぞと。

よく言われたんですが、「福田は、電話でボディーランゲージで話してる」と。
ただやっぱり、ちゃんとした英語でコミュニケーションを取りたいと思ったんですよ。

そこから、どうやって勉強されたんですか?

日本人は12人くらい一緒に行ったんですが、私は英語も話せなかったんですよ。
よく話せないのに行ったなあと自分でも思うんですけど(笑)

ただ、自分が最後まで残ってやろうって思いました。
そのためには、「この人がいないと困ると思われる」のが大事だと思って。

まずは英語を話すためにアメリカ人とばっかり行動しました。
会議中も録音してね。

当時はEメールがアメリカでは使われていて、土日に辞書を引きながら返信をしていたんですよ。
すぐに返信できないから。
そしたら、ロッキーは土日も仕事をしていてアンフェアだと言われたこともあります。

ただそんなことを1年間続けてたら、「ロッキー、ロッキー(福田さんの愛称)」って言われるようになったんですよね。

次回のインタビューは?

その後ベトナムにも勤務することになる福田さん。
ベトナムやミャンマーでの働き方の違いなどをお送りいたします。
インタビューの続きはこちら

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