愛媛の建設会社「愛亀」カンボジア支社で働く丸岡さんの場合
丸岡 茂基(35歳)※取材時の年齢
- 愛知県出身
- カンボジア在住歴5年目
- 株式会社愛亀にてカンボジア駐在
小学校から野球をはじめ、社会人まで野球を続ける。
驚くべきことに、海外に出たきっかけも野球?もちろん大変なことも多かったけど、好きな野球をきっかけに人生を切り拓いてきた丸岡さん。
愛媛以外の出身だからこそ見える愛媛の良さやカンボジアでの野球の活動など。
お話を伺いました。
自己紹介と生まれについて教えてください。
1982年に大阪の住吉区で生まれました。
両親の実家が大阪だったんですが、父親が関東圏で働いていたので、埼玉に10年。小学校5年生の頃に愛知に移って8年。
そこからは家族は愛知県にいます。
自分自身は、高校まで愛知だったんですが、大学から東京に行きました。
埼玉にいた時からずっと野球をしていましたね。
高校時代は野球にのめりこみ過ぎました(笑)。野球をやるのがただ楽しかった。
東京で野球をしたいと思ったので、体育学部に入学しました。
大学では準硬式野球部に入りました。
卒業後も、スポーツが好きで関わっていける仕事は先生だと思って、体育の教員免許も取りました。
学校の先生は野球部の監督になれる可能性がありますからね。
卒業後、野球は続けたんですか?
教員免許は取ったけど教師にはなりませんでした。
教員になるか、社会人野球で野球を続ける選択肢があって。
社会人野球のセレクションが受からなければ教員になろうと思ったんですが、沖縄のクラブチームを持っている会社に受かりました。
沖縄では、午前中野球をして午後は仕事。
当時23歳で1年続けました。
ただ人材派遣の会社で、その時に改正派遣法によって、さまざまな規制が強化された時期で派遣業界自体に大きな影響があり、勤務していた会社のクラブチームも休部になりました。
もちろんまだ、野球をやりたいと思いました。
そこで、大阪のクラブチームに入りました。
野茂さんが、社会人野球をしたい人の受け皿をと作ったクラブチームです。
アルバイトを掛け持ちして、それでも野球がしたかった。
でも28歳になって、年齢的に難しいかなと思いました。
海外に行こうと思ったきっかけはありますか?
野球がだめになってから、海外に興味を持ちました。
大学の野球のキャンプ地が海外だったり、家族でも行ったことがありました。
ワーキングホリデー、青年海外協力隊、海外にいく手段は色々ありました。
沖縄でばらばらになった人とはずっと連絡を取り合っていましたね。
ただ、段々野球をする人が少なくなっていくんですよ。
みんな不安定だった時期を経験したので、警官とか教員など公務員になる人が多かったです。
カンボジアに来たきっかけはなんでしょうか?
沖縄で一緒にプレーしてた友人から、連絡が来たのがきっかけです。
彼も、28歳で野球を辞めたんですが、徳島のチームにいた時に、オフの時期はレンコン畑で仕事をしていました。
彼は兄の影響もあって海外でビジネスチャンスを探していたんですが、カンボジアでレンコンはどうかなと。
隣国のベトナムではレンコンって多く作られているんですよ。
徳島側もちょうど中国以外から買いたいと思っていたんですよね。
そこで、「カンボジアで一緒にレンコン作りましょう」って。
それが2013年、30歳。海外に行くか考えていたときです。
その時に、彼と会社をやりたいなと思いました。
しかし、カンボジアの農家からレンコン畑を借りて作ってみましたが、上手くいきません。
カンボジアの農業って、水の調整や肥料もあげない、自然に任せているんです。
ベトナムはインフラや設備が整っているからできるんだなと。
これをやるには大規模な投資をする必要があると思いましたね。
カンボジアでも野球の集まりはありましたか?
当時からカンボジアでも野球の集まりに参加していました。
趣味としてですが。
毎年11月にタイで各国在住の日本人チームが集まる大会があります。
レンコン畑がだめになっても、野球の大会までに時間があったので英語学校に通いながら残っていました。
カンボジアが好きだったのもあります。
カンボジアでは野球はあまり知られていません。
対戦相手はいませんし、野球道具もない。
グランド整備から始めなきゃいけない。
ボールを打っても、周りを囲うネットがないのでどんどんボールなくなっていくんですよ(笑)。
でもやりたいんですよね、みんな(笑)。
カンボジアに来てまで、野球をやりたい人がいるんだってびっくりしました。
今では私もその一人です。
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